「足るを知る」という言葉がある。分からなくはない。
欲をかきすぎず、今あるものに満足しろという意味だ。
しかし、実際にそれを 「どうやればいいのか」となると、少し困る。頭では分かっているが、腹が納得しない。
例えば、朝起きてスマホを見ると、誰かが温泉に行っていたり、誰かが新しい靴を買っていたりする。
私はといえば、冷えた白米にお茶をかける朝食である。それを見て「私は足りている」と思うには、ちょっと工夫がいる。
「足りる」とは、どの程度のことか
よく「知足者富」と言う。足るを知る者は富む、と。
ただ、富とは何だ。心の余裕か。銀行の預金か。
それとも、ゆで卵がうまいと感じる能力か。
私はたまに、残りご飯に卵を落としてかき混ぜ、醤油をかけて食べる。妙においしいと感じたとき、「ああ、自分はもうこれで十分なのかもしれない」と思う。
しかしそれは、卵が新しかったからかもしれないし、そもそも「足る」ってこのことであってる?
何が足りているのか、あるいは何が足りていないのか。
そういうことを考えているうちは、まだ足りていないのかもしれない。
そもそも「足るを知る」ってどういう意味?
まず前提として、「足るを知る」って、欲を全部なくせとか、我慢しろって話じゃないと思う。
本当の意味は、「今すでに持っているものの価値に気づく」みたいなニュアンスかと。
ちゃんと目を向ければ、実はいろんなものがすでにあるじゃん、っていう視点の話だろう。
足るを知るために、実際にやってみたこと
「足るを知る」ために、いろいろ試してみた。
持ち物をながめてみた
使ってないマグカップが三つもあった。お茶は一度に一杯しか飲まないのに。
つまり、自分はマグカップは「足りていた」と気づけた。
今あるものを書き出してみた
物でも人でも環境でも、ジャンルを問わずにとにかく「あるものリスト」を書く。
- マグカップが3つある
- ボールペンが5本ある
- パソコンがある
- スマホがある
- ごはんが食べられた
- 今日も目が覚めた
- 屋根のある部屋にいる
いろいろ書きだしているうちに、当たり前すぎて忘れてた「ありがたさ」に、ふっと気づける瞬間があった。
モノに話しかけてみた
「いつもありがとうね」って、スマホや靴に話しかけてみる。
古い茶碗にも話しかけてみる。「お前、割れずに残ってるな」
気持ち悪いかもしれないけど、自分がどれだけ「モノの恩恵」に頼ってたか気づくようになった。
「ありがとう」とつぶやいてみた
相手がいない時でも言ってみる。不気味かと思いきや、わりと効く。
「ありがとう」を口に出すだけで、心の視点が変わる。
モノにも、人にも、自分にも。「これがあってよかった」と言うだけで、足りてる感覚がじわっと湧いてくる。
SNSを開かない
思い切って、SNS断ちをしてみた日は、正直めちゃくちゃ心が静かになった。
他人の生活を見てる時間って、案外「自分の足りなさ」を拡大するだけだった。
代わりに天井の染みを観察。染みは何も言わない。完璧だ。
「もう十分だ」と言ってみた
ちょっとバカみたいだけど、「これで十分だ」って声に出すと、なんか満たされる。不思議。
言葉って、思ってるより自分の感覚に影響してる。
言ったからといって、心が納得するとは限らない。でも何度か言ってるうちに、ちょっとマシになる。
でも、言いすぎると「欲」がなくなり、生きる気力もなくなりそうなので、これは少し怖いと思った。
宇宙から自分を見下ろしてみた
地球、46億年。宇宙、138億年。その中で、今、自分が生きてる。
この確率に思いをはせるだけで、「足りない」とか言ってるのがどうでもよくなる。
足りないものを見るからこそ、足るが浮かび上がる
これは私の仮説だが、「足るを知る」っていうのは、「足らない」を知ってないと、なかなか難しいのではないかと思う。
人は比較する生き物で、なにかと比べないと「ありがたみ」を感じづらい。
健康は風邪をひいてから気づくし、静けさは隣の部屋の改装工事で初めて恋しくなる。
もっと早く気づけばよかったが、そういうのは大抵、あとからやってくる。
ありがたみというのは、失われてからやってくる。
「他人と比べて足りない」は、けっこう危ない
ここで少し、気をつけたいのが「他人との比較」である。
他人の家、収入、持ち物、体型、フォロワー数、話し方、ペットのかわいさ──
比較する材料はいくらでもあるし、それを見せつけてくる世の中でもある。
けれど、それで「自分は足りてない」と感じてしまうのは、土台からズレている可能性が高い。なぜなら、他人と自分では、前提条件が違うからだ。
比べるなら、過去の自分と比べたほうがいい。
一年前より少し早起きできたとか、去年より怒る回数が減ったとか。
その小さな違いが「お、足りてきたな」と思わせてくれる。
他人との比較で 「足らなさ」を強化するより、過去の自分を振り返って 「足る」の兆しを拾う方が、よっぽど穏やかで現実的だと思う。
「足る」を感じるのは、案外どうでもいい瞬間かもしれない
ある夜、窓を開けていたら風が入ってきた。涼しい。
カーテンが揺れ、遠くの公園から、子供が笑う声が聞こえた。
小さな虫も一緒に入ってきて、顔のまわりを飛んでいた。たぶん蚊。
昔の私なら、手を叩いてた。
けどこの日は、「あっち行ってくれ」と言った。虫はふらふらと、別の方向へ飛んでいった。
このとき、なんとなく「これでいいんじゃないか」と思った。
風もあって、虫も生きてて、私はまあまあ元気で、家は壊れていない。
足るって、そういうことかもしれない。
足るを知る練習は、案外たのしい
「もっともっと」って焦る毎日から、ちょっと立ち止まって「すでにあるもの」を見つめてみる。
それだけで、気持ちってすごく変わる。
人間の脳は、新しい刺激や変化を求めるようにできてる。
だから「今あるもの」に慣れちゃって、「もっともっと」と思い続ける。
このループから一回抜けるために、「足るを知る」っていうブレーキが必要なんだ。
完璧に足るを知る必要はない。ただ、ちょっと視点を変えるだけで、今日がもうちょっと生きやすくなる。
それなら、やってみる価値あると思った。
「足るを知る」ために、モノを減らし、視線を変え、言葉を選び、茶碗に話しかける。
そういうことをしているうちに、「まあ、これでいいか」という瞬間が来る。
それを何度か拾い集めれば、意外とちゃんとした日々になるのかもしれない。
私は今日も、白米を炊く。たぶん、まだ足りている。