願いを叶えたくて、何かをやめる。
いわゆる「断ち物」というやつだ。
自分が自分にかけて力を増幅させる、封印みたいなかんじのアレ。
断ち物で本当に願いが叶うのか、と聞かれれば、「さて……」としか言いようがない。
けれど、人類が昔から断ち物を繰り返してきたのには、理由があるのだと思う。意味がまったくないなら、とっくに誰もやめている。
そこで、私も、これから「パソコンで遊ぶゲーム」を断ってみようと思う。
パソコンにゲームがインストールされていると、仕事に差し支える。
なので、時間泥棒のゲームデータをすべて削除し、生活してみる。
そして、次のような「願」をかけようと思う。
「NISAの枠を、毎月ちゃんと埋めるような人間になる」
すごい目標ではない。だが、目先の誘惑に弱い自分としては、なかなか高い壁になる。
断ち物の効果はあるのか|我慢の代償と、得られるものの不確かさ
ゲームをやめたら、時間ができた。
すると当然、「せっかくだから何かしようか」という気になる。
仕事を少し丁寧にやってみたり、NISAのことを調べてみたり、散歩がてら神社に立ち寄ってみたり。
ゲームに夢中だった頃の自分が見たら、眉をひそめるような時間の使い方だ。
だが、不思議とつらくはなかった。
恋人と別れたあと、しばらく自由な気がして羽根が生えたようになる、あの感じに近い
何かをやめるというのは、案外、快感だった。
とはいえ、得られたのが「夜の余白」と「NISAの基礎知識」だけだったのは少し誤算だった。
もっと劇的な変化があると期待していた。
あと、これまでゲームに費やしていた時間がスッポリと空いてしまったのには参った。ここに何を入れるべきか。
仕事をすればいいのだが、そう1日中、動き回るのもいやだ。
仕方がないので、資格の勉強でもしようとは思っている。
断ち物のやり方|願いと欲望を秤にかけてみる
断ち物に明確なルールはない。
ただ、「断つもの」については、「自分がいちばん好きなもの」を遠ざけるといいと言われている。よく聞くのはこんなもの。
- 甘いもの(チョコ・スイーツなど)
- 嗜好品(お酒やたばこ)
- SNS
- 動画視聴(YouTube、Netflixなど)
- 恋愛・連絡(元恋人、片思いの人など)
- 無駄遣い(コンビニ通い、ネット通販など)
意外なところでは、「マック断ち」「推し断ち」なんて人も。
断つもの=執着しているもの。
だからこそ、断ち物を選ぶ段階で、自分の弱点や未練と向き合うことになる。
断ち物の流れ
自分がやった、断ち物の流れを簡単に書いておく。
- 願いを決めた(NISAの枠をちゃんと埋める)
- やめるものを選んだ(パソコンゲーム)
- 神社に行き、小声で宣言した
- 空いた時間で、仕事をちゃんとしたり、前に進むための行動をおこす
願いと欲望を秤にかける。
「このくらいの我慢で、目標が近づくなら、まぁいいか」と思えるラインがある。
その重さが、自分にとってちょうどよければ、自然と続く。
神社で断ち物の祈願|信じるというより、決意を置いてくる
ゲームをやめるにあたって、近所の神社に行った。
別に「叶えてください」と強く祈ったわけではない。
ただ、境内で「パソコンゲームをやめてみる。そのかわり仕事頑張る。そしてNISAの枠を埋めるので、どうか云々」と呟いただけだ。
神様は何も言わなかった。風も吹かなかった。
でも、言葉にしたことで、少しだけ内側が変わった気がした。
たぶん、断ち物というのは「願いを叶えてください」と祈るというより、自分への約束を外に出すための手続きだ。
そしてその聞き手として、神社という場所はとても都合がいい。返事を求められることもないし、しんと静かで、なにより、お賽銭以外にお金がかからない。
私の断ち物体験談|ゲームを断って、NISAを埋める
ゲームをやめて数ヶ月。
NISA口座に何か革命が起きたかと言えば、そんなことはまったくない。
今も枠は空いている。むしろスッカスカ。NISAの買い付け余力もさほど増えていない。
それでも「ちゃんとNISA枠を使い切りたい」という気持ちだけは、確かに生まれた。
それだけでも、断った意味はあると信じている。
信じないと、パソコンゲームをやめた自分が報われない。
よく「好きなものを我慢するなんて無駄だ」と言う人がいる。
わかる。その考え方も正しい。
だが、「好きなものを我慢している自分が、少しだけ嫌いじゃない」という気持ちも、案外悪くない。
断ち物の願いが叶ったあとはどうする?
NISAの枠は、今も空いている。
だが、「それを埋める方向に進んでいる」という実感はある。
たぶん、それだけで十分なのだと思う。
断ち物というのは、ゴールより「その途中」に効き目がある。
なにかをやめて、その空白に願いを置く。その行為が、日々の選択を少しだけ変えてくれる。
神社には、そのうちまた行こうと思っている。
「叶いました」と報告するためではない。「今のところ、いい感じにやってます」と途中経過を伝えにいくつもりだ。
神様は、たぶんそういう報告にも文句は言わない。
断ち物とは、自分への皮肉な贈りもの
断ち物は、自分を信じきれぬ者が、それでも何かを成し遂げようと足掻く、ちいさな悪あがきのようなものだと思った。
だが私はその「悪あがき」が好きだ、とも思った。
好きを断って、願いに向かう――そこには、少しの狂気と、ささやかな祈りと、他人に見せるには少々恥ずかしい、真剣な願いがある。
願いが叶うかどうかは知らん。
だが、「叶えたいと思っている自分」がいる限り、前に進める気がする。
ちなみに、ゲームは今でも、毎日のようにやりたくなる。
毎日のようにゲームがやりたくなるからこそ、「あっ、仕事をして、NISA枠を埋めなきゃ!」と意識づけができる。
願いはまだ叶っていない。
それでも、叶えようとしている自分を、少しだけ好きになった。
その感覚がある限り、この断ち物は、無駄じゃないと信じている。
断ち物Q&A|よくある疑問に答える、つもり
Q:途中でやめてもいい?
→やめたければやめればいいのではないか。ただし、叶わぬのを運のせいにはできない。
Q.途中でやめたら罰が当たる?
→そんなことない……はず。でも、約束を破ったら自分が一番モヤモヤするので、その点ではすでに罰が当たっている。
Q:人に言わないでやってもいい?
→構わない。ただし、自分が自分に嘘をつかぬ限り。
Q:断つものを選べない
→ならば、手元から取り上げられたとき一番困るものを思い浮かべるとよいかも。