表題の通り、マルチタスクはガチャガチャして苦手だけど。シングルタスクはつまらなくてすぐ飽きる。
……さて、どうするか?
マルチタスクが苦手な理由
マルチタスクが苦手だということに、私はある日ふと気がついた。
ふたつのことを同時にやると、たいていどちらも中途半端になって終わる。
食べかけの饅頭を2つ両手に持ったまま、どっちからかじるか決めかねて日が暮れる……みたいな感じ。
社会人になりたてのころは「複数のことを同時にこなして一人前」と思い込み、メールを打ちながらチャットを読み、会議でうなずきながら頭の片隅では請求書の締切を思い出していた。
結果、どれも雑になる。どれも終わらない。なのに疲れる。
マルチタスクをすると、脳のスタミナがごっそり削られる。
一見、やっているふりはできる。だが実のところ、脳内ではずっとタスクの片づけ待ち行列が渋滞を起こしており、夕方にはほぼ機能しなくなる。
私はこの「切り替えの多さ」に弱い。
別のことに目を向けるたびに、思考の根がいったん引き抜かれてしまう。切り替えるたびに頭の中で何かがガチャッと鳴っている気がする。
つまり、マルチタスクとは集中の根をブチブチちぎり続ける作業にほかならん。
シングルタスクは、つまらない
ならばひとつのことに集中すればよいのか?と問われれば、それもまた困る。
シングルタスク──。言葉だけ聞けば神聖ですらある。余白のある机、静かな空間、整った思考。
まるで修行僧のような働き方であり、美徳であるとさえ言われる。
だが実際やってみると、ものすごく「つまらない」。
目の前のひとつに集中せよ、という理屈はわかる。
わかるのだが、脳が勝手に飽きる。仕事中なのに「昨日のアレどうなったっけ」とか「夕飯何にしよう」とか、まったく関係のない映像が脳内を流れていく。
もしかしたら私は、少しの雑味がないと退屈を感じてしまうタイプなのだろう。
真水のようなシングルタスクは、味気ないと感じてしまう。
どこかに少し、香ばしさか、苦みか、音のようなものがほしい。
集中とは「気分とテンポの一致」かもしれない
最近になってようやく、「集中とは才能や訓練だけではどうにもならない」と気づいた。
意識や根性よりも、「自分の気分とテンポが作業と一致しているかどうか」のほうが、はるかに大事だった。これは理屈ではない。感覚の問題である。
私は仕事中、よくプロ野球中継をつけている。
ガッツリと観ているわけではない。音量は小さく、目もほとんど向けない。
ただ、ピッチャーが間をとって呼吸を整える時間や、実況の抑揚、時おり飛ぶ打球の音や観客の歓声が、脳にとってちょうどよい「ゆらぎ」になる。
ずっと静かだと、脳が自分の声だけを聞きはじめてしまう。
そこに他者のリズムが入ってくると、不思議と集中しやすくなる。
人間の集中は、完全な孤独よりも、「ほんの少しの他者」に支えられる場面が多い。
自分に合うゆらぎを、いくつかそばに置く
「ながら作業は悪」という定説も、確かに分かる。
ただ、集中のかたちは人によって違うし、むしろ揺れ幅があるほうが私には合っている。
たとえば、こんな「ゆらぎ」が私にはちょうどよい:
- プロ野球中継
(BGM代わり) - 海外の音楽やクラシックを流す
(日本語で歌詞が入ってこない音楽) - 作業動画を流す
(延々と、何かを磨いているような動画) - これらに共通しているのは、「直接的に仕事を助けるわけではない」ことだ。
- それでも、何かを「進めたい」という気持ちの輪郭を、そっと浮かび上がらせてくれる。
集中は、うまくいく日もあれば、いかない日もある
集中とは、獲得するものではなく、訪れてくれるものなのかもしれない。
だから私は最近、「集中できるように頑張る」のをやめた。
代わりに、「集中が来やすい雰囲気」を用意するようにしている。
無理に押し切るよりも、流れに少し身をゆだねるほうが、結果的に長く作業に向き合える。
だから私は今日もまた、真剣すぎないBGMを背景に、いくらか不真面目な気持ちで机に向かっている。進まないようで、進んでいる。
そんな日が、一番やさしいな、と。