部屋はさほど散らかっていない。
本棚には余白があるし、床にも何か落ちているわけではない。
押し入れを開けても、無理に詰め込まれた様子はなく、全体として「片付いてはいる」部屋にはなった。いわゆる「中間部屋」
そして、ここからの整理が何も手につかない。
たとえば、机の上には資格の参考書がある。その隣には料理本もある。
どちらも私の関心を集めていた記憶があるが、今となっては、これらを整理したほうがいいのか、それとも残したほうがいいのかを決めかねている。
不思議なもので、こういう状態では掃除も進まない。
物が邪魔なのではなく、気持ちの置き場が見つからない。
「やりたいこと」が複数あると、どれも進まない現象
料理本は、いつか使う。
資格の参考書も、いつか使う。
この状況を他人に説明すると、決まって「まずどっちかやればいいじゃない」と返される。言っていることは正しい。正論。
しかし問題は、どちらを選ぶにも微妙な「後ろめたさ」がつきまとう点にある。
資格の勉強を優先すれば、「料理も覚えたいのに」という声が聞こえる。
料理をやり始めれば、「資格はどうした」と自分に詰め寄られる。
どちらも手をつければ、それぞれ中途半端になる気がして、結局なにも始まらない。
この「どれも選べず、どれも諦められない」感じが、片付けを鈍らせる。
目の前のものは、ただの紙の束ではない。未決の可能性であり、選び残した責任である。
「1年使っていない物は捨てろ」は本当?
よく言われる。「1年使っていない物は捨ててみよう」「持ち物の8割を捨ててみよう」などの、掃除や片付けの名言や指標。
一理あるとは思う。でも、これが万人に通用するルールかというと、そうでもない。
そもそも、使っていないからといって不要とは限らない。
例えば、旅先で買った土産のカップ。今は使っていなくても、見るたびに気持ちがゆるむ。
そして何より、「捨てると、まぁまぁ後悔する」。
勢いで捨てたあとに、「やっぱりあれ、残しておけばよかったのでは」と思う瞬間は、そこそこある。
私が過去に、捨ててしまって悔やんだものは多い。
たとえばレアなパーツ、すきばさみ、きれいな色のボールペン、梱包用のプチプチ資材……いざという時に限って必要になる。
「使うときに、また買いなおせばいい」などとも言われるが、そう軽々しく言われても困る。
「じゃあお前が買ってくれよ」というのが正直な気持ちである。
捨てることのリスクは、いつだって自分が背負うのだ。
対策:「どっちもやらない」を意図的に選び、潜在意識へ戻す
こういうとき、私は自分に対して一つの決断を促す。
「いったん、どっちもやらない」と決めるのである。
片付けはどうした?――そんなん、とりあえず知らん。整理については、ひとまず置いておく。
これは消極的な放棄ではない。
「やらない」と決め、未処理の選択肢を「潜在意識」へと戻す。
見える場所にあるものは、脳にとって「今すぐ処理すべきタスク」
ここで登場するのが「中身が隠せる箱」。
参考書と料理本をまとめて箱に入れる。選びかねている選択肢を、視界の外に追いやるのだ。
ただの段ボール箱でよい。飾りはいらない。
「隠しただけでしょ」と思われるかもしれないが、人の脳は見えているものを今やることだと勘違いし、ストレスを与える。
そこで「やるべきと思い込んでいること」を視界から消し、脳をひとまず納得させる。
箱を閉じる行為は、掃除とは違う。これは、判断の先延ばしを意識的に受け入れるための小さな儀式。
箱に入れたあとは、「いいかんじに考えてくれ」と脳に丸投げする
箱にしまったからといって、すぐに答えが見つかるわけではない。
だから私は、このように考える。
「自分ではもうどうにもならないから、脳、潜在意識、そなたらにに丸投げする。あとは頼んだぞ」と。
そして、全く関係のないことをする。
アニメのOPだけを数本観たり、スーパーのチラシを意味もなく眺めたり、キーボードの間に挟まったホコリを掃除してみたりする。
ここで大事なのは、「料理や資格」など、問題とは関係のない行動を選ぶこと。
直接解決しようとするのではなく、脳が自動で最適解をはじき出すのを待つ。
思考の隙間を作ると、脳は勝手に裏で処理を始め出す。
ある日ふいに、「やっぱりこっちにしよう」がやってくる
そうして数日、あるいは数週間が過ぎたころ、不意にひらめく。
「なんだか、資格のほうが、しっくりくる」
「料理は、今じゃないかも」
人は、納得したときにしか本当には動けない。
その納得は、時として時間というスープの中でゆっくり煮込まれる。
そうして、納得感を得たら「資格の勉強をする」という目的が定まるので、その時点で料理本を手放す。これで思考停止が終わる。
もし、箱に入れたまま何年か置いてみて、そのまま存在ごと忘れてしまっていた場合は「料理本」も「資格のテキスト」も両方処分する。どっちも、己にとっては不用品だったと思える。
人生の目的を定めるための待機時間も、片付けの過程
片付けという行為を、「物を減らすこと」だと定義すると、つまずきやすくなる。
目の前のモノをどうにかすればいいのだろう、と思って始めたはずが、いつの間にか「私はどう生きたいのか」「自分の人生に、コレは必要なのか?」という難題に引きずり込まれる。
とはいえ、片付け=人生の目的を定める――と捉えるのは、それはそれで重い。
「どっちにしよう……」「こっちかな……」と、判断を先延ばしにするうちに、自分の優柔不断さが浮き彫りになって、ますます動けなくなる。
決められないまま時間だけが経ち、何も変わらない部屋に、同じ自分がぽつんと座っている。
けれど、決められない自分を責める必要はない。
すぐに判断できないなら、それで構わない。
重要なことは何か?を、すぐに判断できない自分も、片付けの過程の一部だと思う。
決めるための下ごしらえとして、箱に入れる、見えないところに置く、脳に預けて別のことをする――それでいい。
やがて、心のどこかが「そろそろ、コレをやろうぜ」と言い出すときがくる。
それまでは、決められない自分といっしょに、決まらない部屋で、静かに暮らしていけばいい。